「アメリカの七夜」メモその2
なかなか物語の構造が見えそうで見えてこない。困ったときはURTH mailing listである。過去ログをあれこれ検索していると期待通り面白い投稿がいくつかみつかった。
- どうもキリスト教徒の読者には、この物語は復活祭とその直前の聖週間=受難節の話であることが明白であるらしい。具体的にはP.58の十字架を掲げた行列や、P.14の聖餐のパンを思わせるカビの生えたパン。また卵菓子はイースター・エッグなど。
- 失われた一日について、筆者の読後の第一印象は「P.48 第5日の夕刻とP.50 (ナダンの認識によれば)同じ日の夜の間に卵菓子が一個減っているので、実はこの間に一日が経過しており、卵菓子もナダンが自分で食べたにもかかわらず記憶を無くしているのではないか」だった。URTH MLでもPeter Cash氏など同じ意見はあるようだが、もう一つ興味深い意見があった。Jim Jordan氏によるもので、日記の第2セクションと第3セクションの間*1でおそらく一日が失われたというもの。P.13で「その不安はきのうからはじまり、どんどん強まってきた」とあるのに、第1日の部分には不安を感じさせるような記述がないため、第2日に何かが生じ、第3日まで不安が続いていた(従って「きのう」は第2日を指す)との解釈。
- 同じくJim Jordan説では、アーディスは彼女の「父親」が内陸部から連れ帰ってきた怪物であり、なんらかの手段でナダンに「魔法」をかけて魅了している。おそらくそれはP.19で博物館の老人が語る「コミュニケーションのエッセンス」としての「におい」に関連するのではないか、またセックスの後ではその「魔法」の効力が衰えるために裸体を見られるのを拒絶したのではないかとのこと。
- 登場人物の中でもなんだかよくわからないのが船旅でナダンと一緒で、後にレストランで再会するゴラン・ガッセームとミスター・トールマン。Jim Jordan氏はこれについても興味深い解釈を書いている。解釈その1: 失われた第2日にはゴラン・ガッセームとミスター・トールマンとの関係で何かが起きた。P.33の怪物はこの二人が放ったもの。アーディスと役者たちは二人のために働いており、二人はアーディスがナダンを誘惑する間にナダンの部屋を捜索する。解釈その2: アーディスとゴラン・ガッセーム、ミスター・トールマンとの関係はアーディスが言ったとおりで、ナダンの部屋を捜索したのはクレトン。
- これの解釈は、まあ当たっているかもしれないけども、さほど説得力はないように思う。二人の男の名前にヒントがあると思う(特にトールマンについてはわざわざ名前に注目するよう明白なヒントがある)が、よくわからない。いずれにしても狙われたのはナダンのスケッチブックだろう。
- アーディスとクレトンの共犯関係は、「新しい太陽の書」のアギアとアギルスを思わせる。ゴラン・ガッセームとミスター・トールマンはヘトールか。また「クレトン」は芸名なのに、本名の「ボブ・オキーン」が明らかになった後もずっと「クレトン」と呼ばれているのはなぜか。なお「クレトン」はゴア・ヴィダールの『ある小惑星への訪問』で「片足をひきずっている宇宙人」の役である。そうするとセヴェリアンというのも有りか。
- 役名の「エレン」がある時点から本名の「アーディス」と呼ばれるようになった、にもかかわらず「メアリー・ローズ」とは呼ばれないのにも注意。メアリー・ローズは幽霊だからか。
- もう一つJim Jordan説で面白いのが、日記の本文をセクション分けして番号を振ると、全体が対称関係にあることを明らかにしたこと。セクション分けについては8/27の日記参照。ただしここではセクションを21個に分けているが、Jim Jordan氏は23個にセクション分けしている。これは彼が、P.30上段後ろから3行目「そのおなじ夜」のところと、P.46下段4行目「朝」のところで、新しいセクションが始まっているとカウントしているため。一方ORB版の原文ではセクションの始まりは空白行に加えて行頭に "■" 記号があって明白に区切られているため、筆者のカウントでは "■" 記号のあるものだけをセクションとした。このためセクションの数が二つ異なる。
- 日記の前と後にはそれぞれ別のテキスト(ハサン・ケルベライからの報告書と老婦人と若い娘の会話)が置かれている。
- 前から3番目のセクションでナダンは外の怪物を締め出すため鎧戸を閉めており、後ろから3番目のセクションでは怪物のいる部屋の鎧戸をひらく。
- 前から4番目のセクションでは「聖餐のパン」が、後ろから4番目のセクションでは復活祭の行列が出てくる。
- 前から5番目のセクションで乞食が<墓場の町>の秘密をナダンにのぞかせ、後ろから5番目のセクションではアーディスがナダンに秘密をほのめかす。
- 前から6番目のセクションでナダンは初めて芝居を見、後ろから6番目のセクションでは初めて芝居に出演する。
- 前から7番目のセクションでナダンは卵菓子にドラッグをしみこませ、後ろから7番目のセクションでは卵菓子を捨てようとする。(これはちょっと弱いか)
- ここから先はセクション分けの番号がずれるので独自解釈で、かつ厳密な対応関係をちょっと崩してみる。
- 例によってこのような物語の対称構造は、「新しい太陽の書」の円環構造を連想させる。一見ストレートに語られる「アメリカの七夜」においても本当に時間が前から後ろに進んでいる保証はないのだ。ナダンの日記の文章でも書いている内容が前の晩だったり、つい直前のことだったりしてちょっと注意を要するが、これは読者に対するヒントだろう。
- P.17 「それぞれの種類の素粒子のうちでただ一個だけが、時間を前後に往復しているからだ。(中略)つまり、人間だれしもが、いわばおなじひと組のパステルで描かれたスケッチ画なのだ」ここも物語の時間的構造に関するヒント。はたしてこのような構造は物語技法上のテクニックにすぎないのか、それとも「文字通り」時間の対称構造のようなものがあるのか。
- Peter Wrightによる評論 "Attending Daedalus: Gene Wofle, Artifice and the Reader" (ISBN:0853238286)によると「新しい太陽の書」の物語構造は、神話学者ジョゼフ・キャンベルの古典的著作「千の顔をもつ英雄」(ISBN:4409590081, ISBN:440959009X)の中の英雄の原型的行動とほとんど合致しているとのこと。ナダンの対称構造を持つ物語についても同じことが言えないか。
- また「受難」「対称構造」と言えば、J.S.バッハの代表作「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」にも似たような構造があるらしい。礒山雅著「マタイ受難曲」(ISBN:4487791006)によると、この仮説を提唱したのはドイツの音楽学者フリードリヒ・スメントで、彼は長大な「ヨハネ」「マタイ」それぞれの中心部に前後対称の楽曲配分を持つ「心臓部」があるとした。「ヨハネ受難曲」の中心は第22曲のコラール「あなたが捕らわれたからこそ、神の御子よ、わたしたちに自由が臨んだのです」、「マタイ受難曲」の中心は第49曲のソプラノ・アリア「愛の御心から」であり、それぞれに各受難曲の根本理念があらわされているとのこと。ウルフがバッハの受難曲を念頭に置いていたかは不明だが、このような象徴的な対称構造は宗教音楽のみならず、教会建築などさまざまなキリスト教芸術分野に見られるものなので、ウルフが伝統的な象徴体系を意識的に利用したとしてもおかしくないだろう。